3. The questioning mind perceives itself in time, and therefore looks for future answers. The closed mind believes the future and the present will be the same.
- perceive [pərsíːv] : 「知覚する、〜に気付く、〜を見抜く」
- therefore [ðέərfɔ̀ːr] : 「それ故に、そのために、従って、だから」
- look for : 「〜を探す、〜を期待する 」
- future [fjúːtʃər] : 「未来の、今後の」
- answer [ǽnsər] : 「答え、回答、返事、応答」
- closed [klóuzd] : 「閉ざされた、閉じた」
- believe [bilíːv] : 「信じる、確信する、信頼する」
- future [fjúːtʃər] : 「未来、将来、今後、先行き、将来像」
- present [préznt] : 「今、現在」
- same [séim] : 「同じ、同一の、変わらない」
❖ "The questioning mind ~ "「疑問を抱く心は、時間の中で自身を知覚する」。"and therefore ~ "「したがって、未来に答えを求める」。疑問を持つ心とは疑う心のこと。疑っている内容が正しいか誤りか今は判断出来ないが、時間が経過すれば、未来のある時点で答えが得られるはずだと期待している。「時間の中で自身を知覚する」とは、したがって、疑う心は時間に依存する、という意味合い。"The closed mind ~ "「閉ざされた心は未来と現在が同じであろうと信じている」。閉ざされた心とは、幻想の中で眠りこけている心。したがって、幻想依存の心となる。幻想の中で、未来も現在と変わりあるまいと思っているわけだ。
This establishes a seemingly stable state that is usually an attempt to counteract an underlying fear that the future will be worse than the present. This fear inhibits the tendency to question at all.
- establish [istǽbliʃ] : 「確立する、制定する、成立させる」
- seemingly [síːmiŋli] : 「一見したところ、外見的には」
- stable [stéibl] : 「しっかりした、安定した、断固とした」
- state [stéit] : 「状態、形勢、情勢、状況」
- usually [júːʒuəli] : 「普段は、通常、通例、いつもは、大抵」
- attempt [ətémpt] : 「試み、企て」
- counteract [kàuntərǽkt] : 「〜に反対に作用する、対抗する、妨げる」
- underlying [ʌ́ndərlàiiŋ] : 「基本的な、根本的な、内在する、潜在する」
- fear [fíər] : 「恐れ、恐怖、懸念、心配、不安」
- worse [wə́ːrs] : 「より悪い、もっと悪い 」
- inhibit [inhíbət] : 「抑制する、妨げる、阻止する」
- tendency [téndənsi] : 「傾向、性向、性癖」
- at all : 「(肯定文で) とにかく」
❖ "This establishes ~ "「このことは、that以下のような表面的な安定した状態を作り出す」。このこととは、疑問をもつ心、閉ざされた心をもつこと。疑問をもつ心は答えを未来に託すのだから、今は保留状態となり、一見、安定する。閉ざされた心は幻想の中で眠りこけているのだから、眠っている間は安泰だ。"that is usually ~ " 表面的な安定した状態とは、「普通、that以下の潜在的な恐れに対する反作用的な試みである」。疑問をもつ心が答えを保留するのも、眠りをむさぼる心も、その根底には恐れが見え隠れする。どんな恐れかというと、"that the future ~ "「未来が現在より悪くなるかもしれない」という恐れ。未来への恐れに反作用する(counteract)かのように、心を閉ざしたり疑問を呈したりしてその場から逃げ出し、一時的な安定を得ようとするわけだ。"This fear inhibits ~ "「この恐れは、とにもかくにも、疑問をもつという傾向を阻害する」。この文は、一見すると、前文と矛盾するかのように見える。そこで、ここの"the tendency to question(疑問をもつという傾向)"を肯定的にとらえて、『現在の状態に疑問をもつ傾向』と拡大解釈しておこう。つまり、時間保留をする疑う心、眠りに安泰を求める閉ざされた心、そういう心に対して、はたしてこれでいいのだろうか、と疑問をもつこと、ととらえておこう。すると本文は、そういう肯定的な疑問も、恐れが抑制してしまう、という意味合いになる。
簡単に言えば、真実に対して疑問を持ってはいけない。心が真実に対して閉ざされてしまうから。しかし、虚偽に対して疑問を持つことはよい。心が真実に対して開くことになるから。
4. True vision is the natural perception of spiritual sight, but it is still a correction rather than a fact. Spiritual sight is symbolic, and therefore not a device for knowing.
- vision [víʒən] : 「先見の明、洞察力、想像力、視覚、視力」
- natural [nǽtʃərəl] : 「普通の、ありのままの、自然な」
- perception [pərsépʃən] : 「知覚、認知、知見、見識」
- spiritual [spíritʃuəl] : 「精神の、霊的な、崇高な、精神的な」
- sight [sáit] : 「視力、視覚、視野、視界、景色、眺め」
- correction [kərékʃən] : 「訂正、矯正、修正、是正」
- rather than : 「〜よりはむしろ、かえって」
- fact [fǽkt] : 「事実、真相、現実、実際」
- symbolic [simbάlik] : 「象徴となる、象徴の、象徴的な」
- therefore [ðέərfɔ̀ːr] : 「それ故に、そのために、従って、だから」
- device [diváis] : 「装置、道具、手段」
❖ "True vision is ~ "「真のヴィジョンは霊的視覚の自然な知覚である」" but it is still ~ "「しかし、それは、真実であるというよりも修正である」。"spiritual sight"「霊的視覚」は"physical sight"「肉体の目による視覚」と対比させてみると理解出来る。霊的視覚とは、簡単に言えば、心で見る、ということだ。その"spiritual sight"が自然に知覚すること(natural perception)、それが真のヴィジョン(true vision)だと言っている。肉体の目で見えてくるものは真のヴィジョンではない。心の目が知覚する映像がビジョンである。しかし、これだけでは十分ではない。"but it is still ~ "「しかし、それは、真実であるというよりも修正である」。心の目で見ることは、歪んだ心や歪んだ知覚の修正作業(correction)には必要なことだが、"knowledge"「叡智」というレベルから見れば、心の目で見たことはまだ真実(fact)そのものではない。幻想を実在だと錯覚させる肉体的な視覚を修正し、心の目をもって実在する真実を見抜いたとき、そこにヴィジョンによる光景が広がる。それは、まだ形の存在する光景である。しかし、"knowledge"「叡智」とは、形を超越した、いわば素裸の想念の真実、その総体である。だから、"Spiritual sight ~ "「霊的視覚は象徴である」。つまり、形に象徴された光景が見えるだけなのだ。"and therefore ~ "「したがって、知るための装置ではない」。つまり、叡智を知るための装置ではない。形を用いて象徴的に真実が示されただけでは、叡智を獲得したとは言いがたいのだ。ヴィジョンは大切である。しかし、ヴィジョンをもって見た霊的光景、象徴的光景が真の叡智の姿ではない。叡智に至るための通過点である。つまり、"spiritual sight"は、"knowledge"に覚醒する瞬間、"enlightenment"「悟り」に至るための通過点である。もう一段高いレベルである"enlightenment"が、神との直接コミュニケーションである。これが実現するには、高いレベルの啓示(revelation)が必要とされるのだ。
It is, however, a means of right perception, which brings it into the proper domain of the miracle. A "vision of God" would be a miracle rather than a revelation.
- however [hauévər] : 「けれども、しかしながら、また一方」
- means [míːnz] : 「手段、方法」
- bring [bríŋ] : 「〜を持って来る、〜をもたらす」
- proper [prάpər] : 「妥当な、適当な、ふさわしい、相応の」
- domain [douméin] : 「範囲、所有地、領地、分野、専門、領域」
- revelation [rèvəléiʃən] : 「啓示、黙示」
❖ "It is, however ~ "「しかし、それは正しい知覚のための方法ではある」。"which brings it into ~ "「その正しい知覚は霊的視覚を奇跡の適切な領域に連れて行く」。非常に硬い表現だが、要するに、心で見ることは正しい知覚方法であって、奇跡の起こる環境に近づいていく、ということ。ヴィジョンは真実の具現化である奇跡なのだ。"A "vision of God" would ~ "「神のヴィジョンは啓示であるよりはむしろ奇跡である」。ここの"vision of God"は、神の姿、という意味合い。神を心の目でありありと見ることは、奇跡ではあるが啓示ではない。啓示は神との直接コミュニケーションであって、神の姿を心の目で見ることとは異なる。
本来、神は形のある存在ではない。形をもって象徴化出来るような存在ではないのだ。だから、たとえば『神を偶像として崇拝してはいけない』という意味は、神は形がないのだから、神を形として表して、それを崇拝するようではいけない、ということである。
なお、"vision of God"という言葉は旧約聖書の数ヶ所に登場する。その中の一つ、創世記35:7に記されたものを載せておく。
[Genesis 35:6~35:7 from Bible in Basic English]
And Jacob came to Luz in the land of Canaan (which is the same as Beth-el), he and all his people. And there he made an altar, naming the place El-beth-el: because it was there he had the vision of God when he was in flight from his brother.
ヤコブはやがて、一族の者すべてと共に、カナン地方のルズ、すなわちベテルに着き、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。兄を避けて逃げて行ったとき、神がそこでヤコブに現れたからである。(新共同訳)
The fact that perception is involved at all removes the experience from the realm of knowledge. That is why visions, however holy, do not last.
- fact [fǽkt] : 「事実、真相、現実、実際」
- involve [invɑ́lv] : 「〜を含む、伴う、必要とする、〜に伴って生じる」
- at all : 「とにかく、仮にも、いやしくも」
- remove [rimúːv] : 「〜を取り除く、取り去る、取り外す、除去する」
- experience [ikspíəriəns] : 「〜を経験する、〜を体験する」
- realm [rélm] : 「領域、範囲、分野、王国」
- knowledge [nάlidʒ] : 「知識、知恵、知見、情報、事実」
- holy [hóuli] : 「神聖な」
- last [lǽst] : 「続く、存続する、持続する、耐える、持ちこたえる」
❖ "The fact that ~ "「とにかく、知覚が伴うという事実は、経験を叡智の領域から取り除いてしまう」。肉体的な知覚が絡んでくる経験から得られる知識、知恵は、知覚が幻想であるから、その知識や知恵もまた必然的に幻想的な要素を含んでしまう。一方、叡智は純粋な真実の総体であるから、知覚が絡んだ知識や知恵は叡智の領域に入り込むことは出来ない。具体的に言い直そう。体験や経験は必ず知覚経験を含んでいる。なぜなら、五感で体験し、経験するからである。知覚を含んでいる事実から、経験は時間依存であり、空間にも依存する。したがって、時空を超越した実相レベルである"knowledge"「智慧」の領域に経験は入れないのだ。本文は、したがて、知覚(perception)を含む(involve)という事実(fact)が、経験(experience)を神の領域(realm)である叡智(knowledge)からはじき出して(remove)しまう、となる。"That is why ~ "「それが、いかに神聖であれヴィジョンが長続きしない理由である」。心の目が捉えた真実の光景がヴィジョンであり、それ自体は神聖である。しかし、ヴィジョンが修正された知覚である以上、映し出された光景は永遠不変ではない。たとえば、あなたが肉体的な知覚を奇跡によって修正し、心の目をもって世界を見たとき、世界は神々しい光を放って見えてくるはずだ。真実の姿が見えてくる。しかし、光輝く世界自体が叡智なのではない。それは実相世界ではない。あなたが知覚した光輝く世界は通過点であって、あなたはその経験を突っ切って、叡智の領域、すなわち実相世界へと進まなくてはいけないのだ。ヴィジョンは最終目的ではない。実相世界へ至るための手段である。